往々にして私たちは、どちらが好きか嫌いか、いずれが勝ちか負けかなど、物事を二つに分けて考えがちだ。
私の本来の性格では、好き嫌いははっきりしているし、勝ち負けにもこだわる。雌雄ははっきりと決しないと気が済まないタイプだ。
しかし、気に入らないからと言って、しょっちゅう喧嘩していたら身が持たないし、だいいち気に入らないヤツは次から次へと現れるだろうからキリがない。
さて、私たちの身体には右側と左側があり、右手と左手がある。
居合道で使う二尺以上の刀は両手で持ってつかう。
この、両手で持ってつかうというのが肝である。
そして居合道の場合は利き手がどちらであろうが、右手が前、左手が後ろと決まっている。この決まりは絶対である。
刀を動かす軌道も、上から下から、右から左からと何通りかある。
ここで肝心なのは、ある時には右手をいかし、またある時には左手を勝たせる、というようなバランスの取り方である。
例えば、右手が利き手だからといって、いつでも右手が勝っていればよいわけではないし、あるいは逆に左手こそ肝要で右手は添えていればよいわけでもない。
ある斬り方や、ある局面においては右手をより勝たせて、左手は添える程度という場合もあるし、その逆もある。
そうやって、その時々に応じて右手と左手のバランスを取ることを、私は「調子を取る」と言っている。
調子を取るのは臨機応変である。
もちろん、ある程度の目安はあるが、感覚領域のことなので、自分でつかまなければ、つかえるようにはならない。
ある時には六分四分で右手を勝たせ、左手には泣いてもらい、またある時には七分三分で日頃の鬱積を晴らすように左手に勝たせる。
そうやって自分の身体をある意味では騙すようにして、勝負させるのだ。
しかし、騙しが過ぎると身体から反撃をくらうので要注意だ。
調子を取るとは、あくまでもバランスを優先させることで、今回はこんな感じで頼みますよ、と交渉するようなものだ。勝敗を裁くジャッジメントではない。
ある時には勝ちを譲り、また別の時には譲った分を返してもらう。
そうやって融通しながらバランスを取る姿勢は、少し前の日本人の多くの人の生き方と同じように思える。
勝ち負けにこだわって一喜一憂したり、怒りや敗北感を募らせるより楽な生き方だと思うがいかがだろうか。