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道場バンザイ道場で実践される剣の道の本筋と、近くもあり遠くもある話を、師範・剣士 黒澤雄太が少しばかりくだけた調子で綴るエッセイのほか、道場からのお知らせなどを掲載します。
師範の大伯父である作曲家・須賀田礒太郎の作品を集めたCD。小松一彦指揮、
神奈川フィルハーモニー管弦楽団演奏。音楽評論家・片山杜秀さんによる渾身の
解説つき。
須賀田礒太郎についての細かいことはbutokuin.comにて。 ・ タワーレコード ・ HMVジャパン株式会社 「宿無し興道」といわれた昭和の名僧が語りおろした戦前からのベストセラー。 この本に出会って生きる力のわいた人は数知れず、その力は今もって衰えるどこ ろか、 こういう時代だからこそもう一度この本を読むべき。
インドに一億人以上いる仏教徒の指導者は佐々井秀嶺師という日本人僧侶だと いうことを皆さんはご存知ですか? この本はその佐々井師の破天荒な人生を描いた大著。
岡本太郎は情熱的で、わがままで、自分の意見をはっきり持って曲げずにいな がら、人に好かれる男。 そんな男の内面からわき上がる命のエネルギーを言葉にした本。 絵や他の作品も素晴らしいけど、これを読むと太郎の見方がより多面体になる。
世に伝書のたぐいはいろいろあれど、この一冊にそのエッセンスを凝縮した良書。 抜粋なので、これを手始めに興味がわけば本編も読んでみればよし、 そうでなくても味読すれば得るところ多し。
「岸和田少年愚連隊」の中場利一氏によるエッセイ集。 遊んで暮らすっていうのもかなりの体力と精神力が必要だ。 だったら普通に働いた方が安穏だよ凡人は、と笑いながら思う。
人生に必要なのは勇気とわがままと忍耐だとヘッセはいう。 服従を強いられるこの社会の中で、世の法律などに服従するのではなく、 我が心のままに従えと説くわがまま礼賛の書。
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2016.12.06 Tuesday
殺活自在の流儀 二回目を終えて
関口流師家の山田利康さんを迎え、11月20日におこなった「殺活自在の流儀Vol.2」は、お陰様で定員以上の人が来てくれて、盛況のうちに終わることができた。
さて、内容をここに記すことは煩雑なのでしないが、印象に残ったある方のことを書きたい。 丹田から氣を発し、刀と身体を一体化するとか、切先に氣を通すなどは武道の基本であり、我が道場でも常に言っているが、それができるのかと言うと、なかなか難しい。
2016.10.28 Friday
殺活自在の流儀 席数を減らすこと
11月20日の「殺活自在の流儀」は、四谷にある、少し変わった店で行います。 昨日改めて店に打ち合わせに行き、より密室的に、より親密に会を行おうと、席数を三十人にへらしました。 今回は、関口流の師家、山田利康さんを岐阜県より迎え、普段はあまり聞けないような突っ込んだ話もしたいと思います。 つまり、武道は本源とは何か、先人たちは何を求めて修行していたのか、武道と仏教、神道との繋がりは何か、そういったことを話せればと思います。 もちろん、少し難しい話になるかもしれませんが、簡単な話ばかりして、馴れ合い的に道場に通っても、いつまでたっても武道の本源には辿り着かず、視野に入れることさえままならず、私も山田さんも道場主として、そういった危機感を持っているのです。 しかし、ずっとピリピリした雰囲気の中でやりたいわけではなく、人数も少ないし、車座になって、美味しいお茶でも飲みながら、本質的な話を、ざっくばらんにしましょう!ということです。 緩急、緊張と弛緩、これも武道の要諦ですからね。
ぜひ皆様との出会いを楽しみにしています。 チケット予約ページ
2016.10.24 Monday
諏訪大社奉納演武を終えて
去る10月22日、諏訪大社 上社 本宮 神楽殿での奉納演武を無事執り行いました。 神楽殿は国の重要文化財であり、諏訪社の古来からの信仰のライン、つまり山(御射山)、石(硯石)、水(天流水舎)にまっすぐ連なり、神々の力を直接的に身体に受けられるような感覚がありました。 演武前の昇殿参拝のおりに、祝詞をあげていただき、玉串奉納もいたしました。 その時に神主さんが、「諏訪の神はもともとは水の神、風の神でしたが、神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定の時に諏訪大神の神助があり、それ以来、戦神としての信仰も集めています。今回は真剣試し斬りの奉納演武をなさるそうですが、諏訪の大神さまはきっと、それをみることを喜んでおられます。」とおっしゃってくださいました。 その言葉は、まさに我が意を得たりでした。 諏訪の神の起源は、一説には縄文中期にまでさかのぼることができるといいます。 その長き時間のあいまに、私の剣が一閃する刹那、諏訪の大神に我が生の存在を表明できればという思いで奉納いたしました。
追記 諏訪の大神は龍神でもあります。 龍族の私は、来るべくして、ここに来たと強く感じました。 演武をご覧になりたい方は、次回の「殺活自在の流儀」に、ぜひいらしてください。
2016.10.17 Monday
関口流師家 山田利康さんと他流試合一本目〜殺活自在の流儀Vol.2
来る十一月二十日(土)、殺活自在の流儀の第二回目を「剣術使い対決 演武と対談」として、ゲストに関口流抜刀術の山田利康師家をお迎えし、執り行うこととなった。 彼も、今の世の中で普通とされる生き方ではなく、自分独自の道を歩もうとしている。 今回は私だけでなく、山田さんの演武も披露される。 質疑応答の時間もとるつもりだ。
チケットは予約制で、限定30人である。
参加希望の方は以下のページから申し込みください。
殺活自在の流儀Vol.2 2016.10.13 Thursday
諏訪大社で奉納演武
今年の奉納演武は諏訪大社 上社 本宮で執り行うことになった。 なぜ諏訪大社なのか、理由を言葉で説明するのは難しい。 ただ導かれて、というのが本当のところのように思える。
我が家に諏訪大神の掛け軸がある。 道場が今の寺に移転した時に、ある女性が届けてくれた。 しかし、この女性が誰なのかわからない。 自分の居ぬ間に寺に来て、私に渡すよう住職に頼んで去って行ったそうだ。 もう10年も前のことで、その女性のことはいまだ謎のままだが、私はきっと諏訪社の女神「八坂刀売神(やさかとめのかみ)」がどなたかに憑依して、私にこれを届けたと思うことにした。 諏訪大社は武神であり、龍神であり、女神でもある。 これらの要素は、すべて自分に縁が深い。 またその信仰の起源は、縄文時代中期にまで遡ることができる、大変シャーマニズム的色彩の濃いものだ。 今回の奉納演武を機に、諏訪大社の歴史を勉強すればするほど、興味は尽きない。 刀の技を奉納することによって、諏訪の神々と一体化したいと願っている。
日本武徳院試斬居合道 諏訪大社 奉納演武 10月22日 14時 正式参拝 14時30分 奉納演武 諏訪大社 上社 本宮 神楽殿
2016.09.15 Thursday
小学生の道場体験記
今年の夏は、海外からのお客さんなどもあり、いろいろな人が道場を訪ねてくれたが、なかでも印象深かったのが、高校時代の友人の息子である。 夏休みの課題に日本刀のことを取り上げたく、ぜひ道場にも訪問したいと、小学生とは思えない奇特なことを言う。 道場に来て会うと、一本スジの通った子で、礼儀正しく、活発な印象だった。 体験で木刀をふらせると、初めてなのにしっかりとできる。この辺は遺伝子なのか何なのか、端から刀が手につく人もいれば、いつまでたっても、手にも腰にもつかないヤツもいる。実に不思議である。 気合いの声もしっかり出て頼もしい。 その後の型や試斬稽古の見学でも、飽きることなく、集中してみていたのには感心した。大人でも緊張感に堪えられず、一時間あまりで逃げるように帰っていくのもいるのにである。 最後の掃除もしっかり手伝い、質問を受けると、この後刀剣博物館などにも行って刀をみて、課題をまとめるそうだ。 その成果が以下の写真である。
日本刀の特徴や、西洋の刀との違い、伝説となっている有名な刀剣、そして道場での体験などが網羅されている。本で読んだだけの知識や、耳学問、ネットの断片的な情報に惑わされず、きちんと自分で体験して、こうした形に落とし込んでいるところがえらいと思う。 昨今ゲームや漫画などの影響で、にわかに日本刀がブームみたいになっていて、それはそれで、刀を知るきっかけとしてはよいとも思うが、一方で、そういったブーム的な現象をみていて歯がゆく思うのは、自分の身体を一度通してみる、実際に体験してみたいという声の少なさである。 名刀の品格や、当時のサムライが何を志していたかは、刀を手にしなければ実際のところはわからない。翻ると、刀を手にすれば、それにまつわる、ありとあらゆることが、細胞レベルで、あたかも眼を開いたかのように観えてくるのである。 それにはもちろん、その人の能力や知性や、何よりも心の正しさ、潔さが求められる。 子供は総じて素直で、心ものびのびとして、垢や澱や浮き世のしがらみなどもないから、開眼するのも早いのだろう。 我が道場が、子供の学びの場になるのは光栄であるし、ブームで刀のことを知り、もっと自分の身体で体験したいという人のために活用されるようであれば、こちらもうれしく思う。
| 道場に通いたいと思っている人へ | 16:00 | - | - |
2016.06.20 Monday
佐々井師発掘のマンセル遺跡について
佐々井秀嶺師の功績はたくさんあるが、その中でも最近特に注目を集めているのが、伝説の「南天鉄塔」ではないかと思われる遺跡の発掘だ。 「南天鉄塔」というのは、日本に渡った仏教=大乗仏教すべての祖である「龍樹(ナーガルジュナ)」が伝授された仏の教えの真髄を納めた鉄製の仏塔で、三蔵法師らによって、その存在は伝わっていたが、実際にどこにあるのかは数千年の謎だった。 しかし、佐々井師の本拠地近く、マンセルという場所で発掘された遺跡が南天鉄塔である可能性が高いと最近の研究で明らかになりつつある。 もちろんこの遺跡は、佐々井師の指揮のもと発掘されたものである。 私も以前ここに行ったことがあるが、伝説と現実が融和する不思議な空気の吹く場所であった。
7月3日の奉納演武と対談の会「殺活自在の流儀」では、もちろんこの遺跡のことについても話を聞きたいと思う。 そのうえ今回、司会をお願いした中村龍海さんは、マンセル遺跡の謎を解明しようと志す研究者で、より詳しい話も聞けることだと思う。 ぜひ、この機会に興味のある方は参集願いたい。
師範・剣士 黒澤雄太
佐々井秀嶺師を迎えた奉納演武と対談の会「殺活自在の流儀」→申し込みページ
2016.06.02 Thursday
佐々井秀嶺師=バンテージーに初めて会った時のこと
以下の記事は2010年に書いたもので、しばらく非公開にしていたが、7月3日の奉納演武と対談の会「殺活自在の流儀」のために再掲載する。 これを読んで興味を持った方は、ぜひとも会に参加してほしい。 希代の仏教僧に直接会える数少ない機会、まさに「一期一会」だと思います。 インド仏教の最高指導者である日本人僧侶、佐々井秀嶺師が44年ぶりの一時帰国をしてからもう一年以上の時間がたった。 佐々井師についての詳しくは「破天」(光文社新書)を読んでもらいたいが、苦悩をくぐりぬけたこの希代の名僧の存在は、二ヶ月あまりの一時帰国の間、多くの貴重なものを残していってくれたと思う。 一時帰国中に密着取材をしたドキュメンタリーディレクターの小林三旅君のレポートが、先日発売された「サンガジャパンVol2」に掲載されている。これを読むと、あらためて佐々井師の熱さと現代日本仏教との温度差を感じる。そして、その間に挟まれた人の困惑、つまり、仏教徒や僧侶ではないが、宗教心、あるいは信仰心は持ち合わせている多数の日本人が抱くであろう、現代日本の仏教や僧侶はこれでいいのかという素朴な疑問から発せられる違和感だ。 佐々井師の熱さは強烈だ。先の一時帰国の際にご縁をいただき、佐々井師の前で演武を披露する機会があった。この演武は私にとって特別な場であった。 真剣を目の前で振り回されて物体を截断されると、大抵の人はそれだけで「凄い」と感心して、そこで思考や感覚がストップしてしまう。なかにはそれをいいことに、鬼面人を威すようなことをして調子づいている自称居合家もいるようだが、道を求め実践するというのはそんな甘いもんじゃないのは言わずもがなである。 佐々井師の熱さは、道を求め実践する者、つまり求道者の持つ熱さである。それも半端な熱さではない。相手にとって不足は無し、不遜ながら私は会う前からそう感じていた。 私は人と出会うとき、常に真剣勝負でありたい。それが相手に対する礼儀だと思う。まずはお互いに敬意を持って礼をして、それから真剣にぶつかりあう。勝ち負けではなく、真剣勝負の場に飛び散る火花が好きだ。その火花がかけがえのない教えそのものなのだ。お互いに火花を散らし、礼をした後の爽快感は何物にも代え難い。 しかし現実には、なかなかそういった真剣勝負に乗ってくれる人は少ないのが残念だ。自称居合家にとってはメッキがはがれなくて気楽なもんだろうが、こちとら、それじゃあつまらない。 そう感じている時に佐々井秀嶺師だ。絶対に真剣勝負になると確信していた。 演武の場は佐々井師の弟子の寺の本堂の前、そこにどかっと腰を据え、私が差し上げた鉄扇を手に佐々井師は構える。刀を手に佐々井師の前に進み出で、作法通りに礼をした後、試斬演武をし、また作法通りに礼をして終わる。下手な緊張もなく、自分の力を出しきった。 「あなたが刀を手にして立ったとき、あなたの後ろに雲がわきでて、その雲の間から龍が現れた。あんたも龍の人だな。」佐々井師がおっしゃった。佐々井師が現在布教の拠点としているインドのナグプールは竜宮との意味で、その他にもいろいろと龍に縁のある、龍の人である。 「あんたに龍雲という法名をあげよう」と、ありがたい言葉を賜る。私は何よりも、いまだ若輩の私に手加減なしで真剣勝負をしてくれたことがうれしく、ありがたかった。 小林三旅君が書いている。「(佐々井師には)会って直接話すとみなが好きになる不思議な魅力がある。おそらく、あらゆる宗教者たちは、人の心に入り込み、人の心と関係することでその存在が成り立っているのだ。佐々井さんは、まったく無垢な状態で人の心に入り込むときがある。決死、孤独、闘争、そんなことを経験したとは思えない余裕がある。」 確かに佐々井師の魅力はそこだ。まったくの無垢だから、人の心に入り込んでも、入り込まれた人は嫌な思いをせず、むしろ佐々井師のことが好きになる。ただ、その無垢さは処女のような純潔性ではない。悩み、苦しみもがいてきた、いや、もしかしたら今も悩み苦しみもがいているからこその無垢さだ。 佐々井師の無垢さは一休禅師や白隠禅師、あるいは良寛さんらに通底する。この通底するものを、我々俗世に生きる凡夫はもちろんのこと、多くの宗教者ですらも見失っていやしないだろうか。 人と人とが本当に通じ合うには、欲得抜きでなければ本物ではない。言葉にすれば簡単だが、心の底から実践するとなると難しい。底の底まで自分の心をのぞいたことがあるか。それは実に苦しい作業だ。 ただ、それを実践して生きている人がいる、その人を目の前にして真剣勝負をすることで心が通いあい、言葉では言い表せない、言い尽くせない生きた教えをいただく。それが生命の活力となり、勇気にもなるのだ。 インド仏教最高指導者 佐々井秀嶺師を迎えて、剣士 黒澤雄太=龍雲による真剣試し斬り奉納演武と対談 「殺活自在の流儀」 7月3日 日曜日 15時30分より 四谷真成院にて 予約受付中 2016.05.31 Tuesday
インド仏教最高指導者 佐々井秀嶺師をむかえて奉納演武「殺活自在の流儀」のお知らせ
来る7月3日の日曜日15時より、四谷の真言宗 真成院にて、インド仏教最高指導者にして我が師のひとり、佐々井秀嶺師をむかえて、真剣試し斬り奉納演武と対談を行います。 奉納演武に人を招くことはあまりないのですが、今回は佐々井師やインド仏教の活動を広く知っていただくため、真成院や支援組織である南天会の協力のもと、特別にこの会を設けました。 今後はいつあるとも知れない、正に一期一会の機会ですから、有縁の方や、どこかで知って気になった方は、是非ふるって参会ください。 2000円の料金をいただきますが、これは必要経費を除いて、すべて佐々井師に御布施いたします。 チケットの予約はこのリンク先からお願いします。 多くの方にお集まりいただき、佐々井師とインド仏教の活動が広まることを、心より願っております。 以下はチラシの文面より、佐々井師と私のご縁や、この奉納演武会への思いを書いたものを抜き出しました。 現在1億人以上の信者がいると言われるインド仏教 それをまとめる最高指導者は50年以上前に日本からインドへ渡った佐々井秀嶺という僧侶だ。 ブッタガヤの大菩提寺の管理権奪還運動や、仏教遺跡の発掘、インド政府少数者委員会の仏教代表など、その活躍と貢献は枚挙にいとまがない。 2009年、45年ぶりに日本へ一時帰国をした際、剣士 黒澤雄太と邂逅、黒澤の剣から龍が雲を突き抜けて天に昇っていくのがみえたと、「龍雲」という法名を授ける。 その恩に報いようと黒澤は、佐々井師とインド仏教を守護するため、江戸時代末期に作刀された日本刀を奉納する。 現在その刀は佐々井師が建立したインド・ナグプールの「龍樹菩薩大寺」に納められ、公式にインドへ渡った唯一の日本刀であるとされる。 黒澤はかねてより、剣の道と仏の道は不離一体で、仏の道を学び実践しなければ、剣の道の真髄に至ることはできないと考える。 黒澤の求道する剣は「利剣」であり、それは不動明王や文殊菩薩の持つ剣に繋がるものである。 剣の先人達が剣の道に求めたものは何か? また名だたる武将やサムライたちが仏道に帰依したのはなぜか? 我々の祖先が遺した智慧を現代に活かすには、どうしたらよいのか? 二人の話に興味は尽きない。 主催 日本武徳院試斬居合道 練習生募集 志ある者は来たれ 後援 南天会 2016.03.10 Thursday
刀で心を磨く
人間が人間として正しく、そして楽しく生きていくためには、心を磨くことが大切です。
生まれた時はまっさらで、白く輝くほどだった心も、
年齢を重ねるにつれ輝きがぼやけきて、くすみが目立ち、
酷くなると錆がはじまってきます。
残念なのは、自分の心の状態が自分では見えない人の多いこと。
他人のアラはすぐに目につくのに、いざ自分のこととなると分からなくなるのが人間の性ですから。
では、どうすればいいか。
それは、自分を深く見つめる、内省の時間を定期的に持つことです。
すると次第に自分を客観的に見つめられるようになります。
坐禅や瞑想、ヨガなどもそういう時間なのでしょう。
それらと同じことを、道場では「刀」をもっておこないます。
刀は武士の魂で、いにしえの武士たちは
刀を己の魂を磨く道具ととらえ、
冴えた鋼の肌に己の心を映し、深く自分を見つめていました。
内省の時間は心にゆとりをあたえます。
それが心の栄養となります。
疲れきってしまい、心が悲鳴をあげないように、
いつも心に栄養を補給してあげてください。
時間の流れが早く、そして一日の活動時間の長い現代において、
心の栄養補給は、ますます必要なのではないでしょうか。
| 道場に通いたいと思っている人へ | 12:00 | - | - |
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